社会が悪いからこうなった、という受身的決定論が人手を振っている。社会のせい、親のせい、学校のせいというのだが、それでは君は何も考えておらんのか?と聞きたい。人は受身的にばかり生きているわけではない。自分で能動的に考え、行動する限りにおいてそんな甘ったれたことは言えないはずだ。

ところで人は何故考えるのか?ハイデガーは、時間が原因だと考え、サルトルは、それを無だとした。時間や無が考えを引っ張り出す、という捉え方である。これは人が考えるのではなく、考えが人を取り込む、という逆説的な在り方だから、社会が悪いからこうなった、とする受身的決定論の範囲を出ていない。

能動的に考える、ということは逆境にあって正しい道を選ぶことである。ということは、自由に物を考えることだが、この自由は水が溝を伝ってよどみなく流れることなのか、溝から飛び出して勝手に流れることなのか、よく分かっていない。自由があるのかないのかさえよく分からないのだ。言えることは、受身的法定論からもっとも遠い所にあるらしい、ということだけである。生まれも育ちもぱっとせず、世の中も学校も悪かったが、グレたりもせず、それなりに楽しく生きているのは、そこに本人の能動的な自由意志があったからである。自由とは自分の考えや行動に責任を持つことである。

考えることや行動することが楽しく感じられるのは、意志を支えるドーパミンが出ているからである。自由に考え、振る舞うには意志の力が必要だが、脳の中を幾ら探しても意志のエネルギー源は見つからない。それではいったい何が物を考えようとしているのか?ホルモンである。精神は遺伝子→ホルモンが織り成す壮大なドラマと言える。30億のDNA言語を持つ遺伝子は、暗号に従ってアミノ酸を連結させて酸素やタンパク質を作る。中でも視床下部の神経細胞は、自らがホルモンを合成している。

考えようとする意志は脳幹にある青斑核から分泌されるノルアドレナリンが意志を触発し、それが考えを押し転がしていく。そもそも脳は、遺伝子→神経系→ホルモンの処理工場に過ぎず、脳はニューロンからシナプスを延ばし、遺伝子の情報を神経細胞に乗せ、ホルモンに代えて作業を行う機能を担当するだけである。

生きようとする意志は、元々遺伝子に備わっていた情報である。ホルモンがその情報をエネルギーへと変える。ノルアドレナリンがヤル気なら、集中力や達成感を引き出すのがドーパミンだった。一方、セロトニンは、この両者が暴走して自滅するのを防ぐ役割を担う。

考えを押し転がしていくという態度がドーパミン的能動的思考なら、何でも反対の野党精神や「こうなったのは社会のせい」などの甘ったれは、セロトニン的受身的思考ということができる。ストッパーとして役立つセロトニンも、単一で取り出すと実に扱いにくい厄介者なのだ。反対因子だから面倒だ、ヤル気がない、面白くないと不活発なくせに不平不満を言わせたら一流、という、あまり友人に持ちたくないタイプなのである。