真剣とは何か、時々考える。熱心や真面目とは明らかに異なる。熱心に何かを取り組むことも、真面目にこつこつやることも、真剣とは本質的に何か違う。常々真剣でありたいと思ってきたが、余り自信がない。実は、真剣ということが未だによくわかっていない。

真剣で敵と渡り合う覚悟が自分に在るだろうか、と自問し、おそらく無いだろうと思った。敵の白刃を見ただけで震え上がるのではないだろうか。切腹もできそうにない。侍なら風上にも置けない方なのである。真剣ということについて考えるようになったのは何故だろうか?

何回か講演に出掛けると頭が空っぽになった気分を味わうことができる。これは、その講演最中の自分の熱中率によって、講演後の頭の中に、得も言えぬ充実感に満たされるからであろう。それが真剣さと比例して自分を癒してくれるからであろう。

ところがテレビにはその真剣さが感じられない。特に若いタレントがゲラゲラ笑ってばかりの番耝には、汚物かこの世の終わりを見せられているようである。悪人共の仕業を嬉々として伝えるニュースも、マスコミ文化人の利いたふうな話も、何となく真剣さに欠けて感じられる。

時たま、動物園にいろいろな動物を眺めて歩く。動物たちの目は、せつなくなるほど真剣に見える。静かだが一分のスキもなく、ひっそりと野生の魂を宿している。真剣とは余計なものがそぎ落とされた意志そのものなのかも知れない。野性的だが、猛々しくはなく、檻の運命に委ねているが、人間共に屈服しているわけではない。野性の呼び声に耳を澄ませ、いつも真剣に身搆えている。それが悲しくも美しい。真剣さに心をひかれるのは、それが美しいからである。

また真剣な時には痛みも恐怖も感じないのは何故だろうか。

心の中に真剣という境地があるのではないかと思われる。人は、本来真剣な動物だったのだが、その真剣という心性を失って余計なものを取り入れ過ぎている。真剣に入れ替わって心の中に虚栄や嫉妬、恐怖や慢心などを招き入れていないだろうか。

真剣なとき、体が軽く、心が静かになっている。何でもやれそうな気がし、あまり疲れを感じない。反対に、真剣さ欠くと、ものぐさになり、つまらない考えに頭を占領される。倦怠や退屈も、そんな時にやって来る。

思想家は真剣を相手に戦って来た。言葉を乗り越えて彼らが捕らえようとしたのは、真剣ではなかったかと思われる。頭の良し悪しは、あくまでも比喩的な意味である。真剣という境地に足を踏み入れたとき、世界がよく見えて来る。それが頭の良さだと考える。人は頭で物を考えると思い込んでいる。しかしそれは、意識や言葉を弄んでいるに過ぎなかったかもしれない。実際の生活で考えるのは。目や耳であり、手や足である。立ち上がって身体感覚を用いる時、生きようとする意志が動員される。

先入観を取り払い見つめる。無心に耳を傾けるそしてやって見ると出来るようになる。