病的、または致死的体質と、「異常」な体質についての定義の境界はあいまいなばかりでなく、いつも揺れ動いている。これは検討の対象となっている文化や民族集団のうちでも何が理想的体質であり、正常体質であるかについての統一的な見解はない。私達は遺伝的疾患が除かれることを求めているのであろうか。もしそうなら、どのような重症度が限界点になるだろうか。重い病気のためにある社会にとって不適格だと考えられる個人は、子供を持つことを妨げられるのか。それはどのような方法によって?例えば、もし精神分裂病体質を排除したら、学問芸術の創造性は消滅するだろう。と多くの研究者は主張する(このような主張は輪争の的であったが、頭から誤りだとされたことはなかった)。

好ましい体質を選別するという考えは、DNAの突然変異と組み換えという現象のため、理論的に不可能であるばかりでなく、道理に合わない。どこで歯止めをかければよいのか、どのような肉体的、そして行動的特質も議論の的になる。私達の社会の人達は多分、青い目とブロンドの髪の毛というタイプを望むだろうが、これには歴史的な先例がある。そして、知能という概念はいったい何なのだろうか。私達は全ての人のIQを組織的に高めようとするのだろうか。集団のIQ平均値は100のままである。身長についてはどうだろうか。人の成長ホルモン(GH)研究プロジェク卜に従事する研究者は、彼らに面会を求める両親たちの数の多さに驚かされた。その親とは、小人症の子供をGHで治療してほしいという親ではなく、正常な身長の子供を持っているのに、数万ドルという驚くべき費用や、ホルモンのアンバランスによって副作用が起きることが知られているにもかかわらず、もっと背の高い子になってほしいと願っている親である。もう一度言うが、何が理想的な身長と言えるのだろうか。もし、全ての人の身長が7ftもあるとしたら、もっと高くなろうと望んでいる人は何と8ftにならなければならないということになる。

人は同じように作られているのではない。ということを私達は受け入れなければならない。あらゆる外の生物種と同様に、人は驚くべき多様性、つまりいろいろな肉体的、行動的特質の連続スペクトルを示す。この広いスペクトルは遺伝的多形性によるものであって、進化の基礎と生命の本質を形成している。遣伝的変動はまた環境の変化に適店する性質を与え、この適応は適者生存という現象に深く関与しており、現在、私達人類が存在しているという事美は全てこのことに基づいている。もしこのような遺伝的変動の枠を極端に狭めると、私達は画一的で鈍重な、ロボッ卜に似た生き物になってしまうだろう。

人間を、予め決めた基準の型にはめて造るという考え方や方法を実行に移した例が幾つかある。ナチスの実験、「精神知能的異常」に対する不妊化キャンペーンや子供の性の選択(この場合、男性が98%)、販売可能な商品としてのノーベル賞受賞者の精子の保存などの幾つかの先例があり、このような姿勢はもっともよい場合でも痛烈な反対を受け、もっとも悪い場合には残虐行為に行き着くということを思い出させる。