欧米人は”yes” ”no”をはっきりさせる。これは彼らがシステム人間であることと関わりがある。システムの中で考え、行動するときには”yes” ”no”をはっきりさせておかなければ、他のメンバーが次の手を打てない。

イギリスではラグビーが盛んだが、このゲームはシステムの運動である。ボールを右へ出すか左へ出すか、ウイングで展開するか、フォワードが突進するか、いくつも選釈肢がある中で全員がー致して一つの戦略に従う。この時デジタル方式でなければ、システムプレーが成立しない。アナログ方式は、ニュアンスを伝えるには都合が良いが、右か左か前進するか後退するかという”yes” ”no”式の判断を積み重ねて行くゲームには向かない。

狩りは、それぞれが役割分担に従って一つの目的に向かっていく。手段は異なるがゴールは一つ、 という考え方から、システムという考え方が芽生えた。ところが、自然の恵みで収穫がもたらされる農耕型社会では、戦略に従って役割を分担するという考え方がどこからも要請されない。採集生活では、季節ごとに実りを求めて人々は一斉に野山を移動し、農耕生活が始まっても、人々は同じ時期に種をまき、全員が一斉に刈り入れを行う。日本人の以心伝心とコミュニケーション下手は、生活基盤と精神世界を共有してきた同質社会の性だったかもしれない。

西洋中世史の鯖田豊之によると、ヨーロッパでシステムという考え方が根付いたのは肉食の性だという。小麦の収穫から脱穀、製粉、パン焼き、販売にいたるまでパンの生産には、役割の分担が生じる。システムと個人主義の両立は、役割分担という戦略から生みだされたものだったのである。

一方のランナー思考は、同じ条件下で同一的な能力を競い合う。一見平等のように見えるが、これほど過酷で孤独な「生の闘争」はない。個性による「住み分け」ができないため、全ての個人が一般化されてしまうからである。

欧米のシステム思考と日本の「和の精神」は似て非なるものである。ヨーロッパのシステムは「力を合わせる」だが、日本の和の精神は「心を合わせる」になる。そこから平等や一般化を正当化する考えがでてくる。差異を認めず足避みをそろえよ、というのだが、ここでは個人主義が忘れられる。

「日本人である前に、男や女である前に、人間でなければならない。」と述べる進歩派のニュースキャスターがいる。ところが人は一般化されると澱んで濁り、働かなくなるものである。男と女を一般化した究極が『人間』というのなら、その人間は、恐らく血の通わない『空気人間』である。ルソーは、「一般化された意思が革命の主体=国家になる」と言ったが、一般化された個人は、独裁者に踏みにじられただけだった。そもそも個人の意思を一般化することほど、おぞましい全体主義はない。

システムは本来、個人主義に基づく。異質なものの組み合わせがシステムの特性なのだとすれば、個人がそれぞれ個性を持って独立していなければ、そこにメリットが生じない。