口達者。議論になると、正確な言葉を選び、厳密に論理を組み立てて口角泡を飛ばす。

ディベート相手の言葉尻を捕らえ、論理の破綻を舌鋒鋭く攻めたてる。どうもあやしいと思うのだが、こういう相手にはかないっこない。もっとも分があるのは言い負かされた口下手のほうだったりする。

空疎な言葉を並べ立てることには意味がない。かといって言葉を使わねば、相手に意思が通じない。それではどんな言葉遣いをすれば良いのだろう。それには無意識を活用することである。シュタイナーは「天才は、意識界に背を向け、内的世界と手を結ぶ」と述べた。彼は、この内的世界を霊感、内識、内的実在等と色々な言集で語ったが、「非言語的な連想の洪水」という説明が一番ぴったりする。

意識と無意識を交流させる言葉遣いの一つの俳句がある。

荒海や 佐渡によこたふ 天の河

この句には、世俗の意識を超えた何かがある。風の吹き荒れる闇夜、うねり寄せる日本海の荒波、遥かに見える佐渡島の黒い影は、意識界のでき事だが、天ノ河は、地上のできごとを超えた言葉を失わしめる無意識の景色である。人の言葉は、そこに言葉が追いつかない無意識が紛れ込んでいなければ、記号に過ぎないものになってしまう。

ヨーロッパのロゴス主義は、記号そのものである。「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」は、此岸と彼岸にかかる重大なテーマだが、隨分理詰めな物言いである。

三段論法や消去法、演繹法(えんえき)も帰納法も、言葉を数学の公式のように用いる。ヘーゲルの弁証法は、Aという観念とBという観念が相克してCという新しい観念が生まれるというものだが、ここでは言葉や観念が絶対化される。記号に過ぎないものが生き物のように扱われ絶対化されると、言葉によってでっち上げられた世界が怪物化し、暴力革命や独裁政権、オウムのようなカルト宗教が出現する。

政治家や官僚の言葉が空しいのは、それが心を打たない空語だからである。人権や平等、民主主義も平和主義という言葉も、内的実在を伴わないという意味でほとんどオカルティズムである。C・シュミットは「有能な政治家は人々の無意識にささやきかける」と述べたが、日本の政治家でそれができたのは田中角栄だけだった。

ユングは夜空の星を見上げ「これが無意識だ」とつぶやいた。フロイトが個人体験の中に無意識を見たのに対し、ユングはそれを、民族が遺伝的に備えたものと考え、これを元型と名付けた。個人も民族も心の中に無意識にくるまれた共通の元型を持っていると言うのである。フロイトはそこから言葉が生まれたと言った。これに似た考え方に、プラトンの『イデア』やカントの『アプリオリ』がある。花を美しいと思うのは、元々人は花に対する美の感受性を持っているからだというのである。そうでなければ、人は花を見て感嘆するはずがない。人が言葉を用いるのも、無意識の中に言葉の編み出す先験的な才覚が秘められているからであろう。

言葉も無意識と一体化して生きたものになる。