記憶力確かな理論家は、案外、自分の意見を持っていないものだ。反対に物覚えが悪く、忘れっぽい人が意外なアイデアマンだったりする。記憶力とイメージ力は全く別物なのである。五感から得た刺激をそのまま記憶に残すのは「能動的注意集中」と呼ばれる。見たもの聞いたものをしっかりと覚えている。これに対して「受身的注意集中」は、五感の刺激をさっさと無意識に送り込み、明確な言語的記憶として残さない。

アイデアの源泉となるのは、この非言語的な記憶である。

言語的記憶は、一種の暗記である。直ぐに答えを引き出せるが、ただそれだけのことである。一方無意識へ送り込まれた記憶は、直ぐには復元されることはないが、意識の地平に浮上して来る時、編集され他のイメージと重ね合わされて新しい形をとっている。

「受身的注意集中」の方がアイデア豊かな理由は2つある。一つは、受身的な方が多くを見聞きするからである。一方の「能動的注意集中」は、言語的に世界を観察するために感覚が線的になる。そもそも言語は、文脈を通して理解される。ところが受身的注意集中では、感覚が面的に働く。明確な記憶には残さないが、絵画的に、大雑把に世界をつかみとるのである。もう一つの理由は、非言語の無意識は自分でかんがえるからである。

意識や言葉が自分で考えることが出来ない理由は、記号だからである。意志を持たない記号は、もつれた糸のように複雑性という穴に落ちる。そのためにコンピューターが動員されるのだが、コンピューターも、自分では考えない。一方の無意識は、自ら勝手に考える。意識下の混沌としたイメージが様々に組み替えられるのは、無意識が自らそれを行うからである。だからこそ人の精神は変化や斬新さに富んだニュアンス豊かなものになる。

夢を見るのは「シナプスがネットワークを整理しているプロセス」という説が有力である。真夜中、シナプスが過去の非言語的な記憶を切ったり貼ったり、繋ぎ合わせたりしている。それが夢のメカニズムである。夢がデタラメで不合理だったり、思いがけない内容だったりするのは、どうやらそのせいらしい。

無意識に考える力や意志がなかったら、人は、もっと安眠できる生物になっていたであろう。

ある落語家は、枕元にペンと紙を置き、何か思いついたら、直ぐにそれを書き取るという。科学的に見るとこれには大した意味がない。ふいに頭に思い浮かんだ受身的注意集中は大抵未完成で直ぐには使えないからだ。これを無意識の層に押し戻してやると数ヶ月後、全く違ったアイデアに生まれ変わって復元してくる。

「素晴らしい.考えが頭に浮かんだのに忘れてしまった」というやるせない経験は誰もが持っている。全く地団駄を踏みたくなるが心配に及ばない。忘れられたイメージは、いずれもっとましな形になっていつか必ず飛び出してくる。安心してよいのだが、人はメモ用紙とペンを片手に身構える。だが余り意識的になると、無意識のささやきが聞こえなくなる。そんな時は、言語的繁張を解くことである。美しい画集を眺めたり、頭の中に気持ちの良い風景を思い描くと、無意識の地層が少しずつ開けてくる。