生物学の基礎研究や医学や社会の生活形態に対する分子生物学の寄与は、現代に起きた倫理規範の変化と複雑に絡み合っている。

現在の経済成長が複雑化していることに伴って、文化的価値や個人の生活様式も変化した。今日、社会の根底にあるのは自己礼賛である。容貌、服装、体調が良いことなどに重きが置かれる。私達は常に仕事とレジャーのバランスをうまく取っていこうとしている。

社会は明らかに複雑な技術化を遂げているのに、個人がより自然流の生活に戻ろうとしているのは矛盾しているように見える。私達は環境を大切にすることの重要性を認めてはいるが、現実には生態学的視点と技術的進歩の影響との間に軋轢が生じていることも知っている。現在この軋轢から色々な問題が生じているが、バイオテクノロジーはそのような軋轢の中心にある。

家庭中心主義、勤勉によって得られる成功を軸にした原理こそが、私達の暮らす消費社会、つまり-過剰な物と物的価値を推進力とする社会に導いたのである。日本社会では毎日の生活の全ての面が豊富である。例えば、余りにもたくさんの情報が入ってくるので、堅実に仕事をしたり個人的な意志決定を行うこと、また世の中で何が起こっているかを理解することが、時に困難になってしまうほどである。余りにも過剰な情報は私達の脳の収容処理能力を超え混乱の元になる。余りたくさんの選択肢に直面すると、私達はプリミティブな頭脳構造へと退却して、現実から逃避する傾向がある。こうしてテレビは人気を得たのである。似たようなメカニズムで、人々は不合理な避難場所に保護を求めがちである。

合理的に説明できないことを信じる理由というのは、それが本来どんなものであろうと、神秘主義に圧倒された衝動であり、矛盾へと通じるものである。

科学の進歩によって個人個人の病気を見つけ、治療し、治癒させる手段が増えてきた。

しかし、同時に病気の機構~それに伴う治療法~についての理解をより難しくするような複雑さも生じている。一部ではこういった考え方を理解することがますます難しくなってきたため、別の医療に信頼を置く人の数が増えている。そのような医療には、まさに医学の原則を否定しているにもかかわらず「ドクター」と呼ばれることを主張しているまがいものの科学分野や、いかがわしい資格証明書を盾に人々のだまされやすさや絶望感を目いっぱい利用している、事業家が作った団体などがある。このような医療によってなされることのある、価値ある仕事を退けようというものではないが、現在はどんな時代とも違っていない。科学は社会にあるいわれのない、不安によってもたらされた様々な疑いに対して戦い続けるのである。