何かに気づくというのは本当に難しいことだと思います。
それが自分の欠点であり弱点ならば余計に難しかったりします。なぜなら人間には自我というものがあるからなんです。
つい最近、私は2名の親友が相次いで自らを見つめ直し、修正点に気づき、それを認識しながら新たなステージへ踏み出そうとする瞬間を立ち会うことができ、大変嬉しくまたその友人と共にいることを誇らしい気分になると共に、少し羨ましくも感じながら、私もその姿からまた新しい気付きを得る機会となりました。
人の成長に必要な要素として、人の話を聞こうとする素直さ、何かを追求するまでの飽くなき熱き探究心、そして自らを構成している自我を論破しないことには獲れないその先のステージが有るのだと思います。
ここで、ます自我とは何かをWikipediaで調べてみました。自我には哲学と精神分析学の両視点があるようですが、ここでは精神分析学側より抜粋します。

自我

フロイトの定義では1923年以前までは意識を中心にした自己の意味で使われていた。つまり私に近いものとして語られていたのである。これはこの1923年以前においては、彼が意識と無意識の区別によって精神を把握していたためである。1923年以後、心的構造論と呼ばれる新たな理論を語るようになってから、自我(エゴ)という概念は「意識と前意識、それに無意識的防衛を含む心の構造」を指す言葉として明確化された。
自我(エゴ)はエス(イド)からの要求と超自我(スーパーエゴ)からの要求を受け取り、外界からの刺激を調整する機能を持つ。無意識的防衛を行い、エス(イド)からの欲動を防衛・昇華したり、超自我(スーパーエゴ)の禁止や理想と葛藤したり従ったりする、調整的な存在である。全般的に言えば、自我(ego)はエス(id)・超自我(super-ego)・外界に悩まされる存在として描かれる事も多い。
自我(エゴ)は意識とは異なるもので、あくまでも心の機能や構造から定義された概念である。有名なフロイトの格言としては「自我はそれ自体、意識されない」という発言がある。自我の大部分は機能や構造によって把握されており、自我が最も頻繁に行う活動の一つとして防衛が挙げられるが、この防衛は人間にとってほとんどが無意識的である。よって「自我=意識」と考えるのには注意しなくてはならない。
ちなみに「意識する私」という概念は、精神分析学においては「自己もしくは自己イメージ」として明確に区別されている。日本語においての自我という言葉は、一般的には「私」と同意に受け取られやすいが、それは日常語の範囲で使用する場合にのみ当てはまる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91

なにやら難しいことが書いてありますが、要するに自分を構成する要素として、人間的な成長には常に自然と自我というものと相談しながら進んでいるということだと思います。
自分の知識に無い新たなものを見聞きした時、その出会い頭にそれが好きか嫌いかを瞬時に判断します。これも自我の作用でしょう。それらが自らに特に影響を及ぼさないと判断した時はいとも簡単に処理できてしまうものなのでしょう。
でも、これが自分の現状や過去、今の自身性格に及びそうになった時、自我の独特の能力が表に出てきてしまいます。それがwikiにある、
「自我が最も頻繁に行う活動の一つとして防衛が挙げられる」です。
しかもこれがまた質が悪く、この防衛は人間にとってほとんどが無意識的に発動しているので、自分の欠点が中々修正しにくいのだと思います。
成長とは自分一人では中々難しく、そのうえ普段は良きパートナーである自我が、あらゆる刺激から過保護なぐらい自分を可愛がるので、避けようと思えば簡単に避けられものなのです。ですから私達がこの世で日々成長していくためには、やはり人との接触が不可欠なんだと思います。

自我と相談しても逃げることが出来ないぐらいの衝撃を人から受ける。それはほんとうに辛いことです。ですがそうなってから初めて人の意見に耳を傾けられるようになるのかもしれません。そして自分と相入れにくい人の意見を聞き、悔しさを噛み締めながら何がダメなのか、足りないのか、どうすればよいのかを心が折れるほど考えぬいた先に新たな理論が構築され、それが一つ先の成長に繋がるのです。

人との接触により、その人も活かし自らも活きるような関係性を築くことが多く成ればなるほど、それは自らを高める近道になるのだと感じました。
私自身やはり自我の過保護さに甘えてしまうことが多く、さらなる一歩を踏み出す事をなんの根拠もなく恐れる時がありますが、友人に見習い、仕事や家庭など様々に関わる人を大切にし、熱い探究心を保持しつつ、素直に耳を傾け一つずつ前進できるようになっていきたいと自戒の意味を込めて今回のブログに綴ってみました。