頭の良さ、と言えば、科学や理性という言葉が浮かぶが、誤解である。近代化世界は全て科学で説明がつき、人間の精神イコール理性は無限の可能性をもっているという価値観の下で進められてきた。そのベースになったのは「精神と物質の二元論」だが、最近科学は万能ではなく、理性にも限界があることが理解されてきた。

理性で作り上げられた計画経済(社会主義)が破綻し、科学は地球環境を破壊するところまで進み、社会や人間の大きな脅威になっている。宇宙旅行が可能になったとしても、それが人を幸せにするとは限らない。死の空間から地球を見下ろして小便を飲み水にするような生活が楽しいとはとても思えない。それよりも愛する人々と海や山を相手に生きるほうが楽しそうだ。野蛮人のままでは不幸だが、科学や理性主義に全て預けてしまうと味もそっけもない、というのが21世紀現代人の反省である。

この過ちの最大原因は、理性主義の名の下で「身体喪失」が進んだことである。デカルトは、人間の精神以外は機械だとし、以後、身体は、感覚や意識を精神へ送り込んでいくに過ぎない「訳の分からない物」となってしまった。精神を分離された身体は、今なお「訳の分からない物」でしかないのだが、これが多くの悲劇を生み出した。

交通心理学の松永勝也によると「脳ミソは身体に合わせて作られている」という。スピードが身体感覚を起えると脳の働きが鈍り、交通事故を回避することができなくなる。脳の働きがスピードと反比例して低下し、安全に対する観念や注意力も薄まり、危険を感知できずに平気でアクセルを踏み込んでしまうのである。

身体感覚を超えた誘惑に身をさらすと、人は、往々にして過ちを犯す。大金に目が眩んだ高級官僚の収賄、神仏を私物化する新興宗教の凶悪犯罪、社会的地位を裏切る背信や背任、あるいは女性スキャンダル。彼らが身のほど知らずの犯罪に走ったのは、自分の中に身に余る欲望に対する善悪や適応不適応を判定する基準を持っていなかったからである。

インテリである彼らは、頭の中では善悪や適応不適応の判定基準を持っている。だがそれは、身体感覚から出てきたものではない。頭の中の価値観は、所詮空想である。抜き差しならない現実に置かれた生身を空想でコントロールすることはできない。高速道路を疾走する車を運転するドライバーが二本の足で歩く感覚を忘れ、時速150km/hのスピードにうっとりするように、そしてカーブでハンドルを切りそこねるように、身に余る欲望は、現実から遊離してしまうのである。

人間は、理性を自在に操れる〜としたヒューマニズム信仰は、人間から身体感覚を奪いとった。しかし、この世の主役が生身の人間なのは自明である。腹が減っては戦ができず、科学も哲学も美女の誘惑に勝てない。美女に目がくらむと、高尚な精神もあっさりと捨てられるところが哀しくも、人間の限界なのである。身体感覚が健全であれば常に等身大の判断が下せる。「分をわきまえる」という考え方を身体知と呼ぶなら、これこそ、本当のヒューマニズムということができる。