分子生物学者が開発した技術の中で、もっとも大きな論議を呼び起こしたのは遺伝子治療です。この考え方は、病的な遺伝子を正常なものと入れ替えて遺伝子異常を治そうとするものでありました。初めは疾患を治す素晴らしい方法と観られていましたが、この方法は神様、または自然が創造したものに手を加えるものだという道徳的、倫理的な論議が巻き起こりました。

遺伝子治療には二つの行き方が在ります。第一は受精卵、または初期胚の遺伝子に手を加えることであって、これによって遺伝子の修正は身体の全部の細胞で起こり、子孫へも伝達されます。第二は体細胞の遺伝子の操作であり、個体の特定の細胞系の遺伝子のみを修正することが目的です。この場合は導入した修正は次世代には伝わりません。現在、人間の受精卵や初期胚を遺伝子操作することは禁止されており、体細胞の遺伝子操作が厳しい条件の下でのみ許されています。

遺伝子治療は将来非常に期待されている医療手段であることは確かなことです。例えば人々に対する遺伝相談によって、サラセミア(地中海貧血)と呼ばれる遺伝性の貧血が減ってきている事実が示すように、たしかに重い遺伝的異常を持った子供の出生数は減少しています。しかし遺伝相談などの社会教育だけでは、遺伝的疾患を根絶することは出来ないと思われます。遺伝子治療は遺伝的疾患の根絶へ向けての究極の武器となるものであります。しかしこの技術が日常的な医療に使われるようになるまでには、まだ多くの改良が必要です。目的の遺伝子を含むDNAを細胞のDNAに組み込むためにはベクター(DNAの運び役)としてレトロウイルス(この特殊なウイルスは自分の遺伝子を感染した細胞のゲノムに組み込む)が好んで使われています。ウイルス遺伝子の80%はウイルス自身のタンパク質生産を指令する部分で占められているが、この部分を細胞に組み込むべきDNAと入れ換えて使うのです。レトロウイルスをベクターとして使うと、どのような遺伝子、またはDNA断片でも人間の細胞に組み込むことが出来ます。

今まで、研究者達はほとんどの場合、造血系(血液前駆体)細胞である骨髄細胞や繊維芽細胞(皮膚細胞)のような増殖の速い細胞を対象として、それに目的のDNAを組み込む実験を行って来ました。マウス、霊長類、人間の骨髄細胞に種々の遺伝子を組み込むレトロウイルスを感染させることは成功していますが、この方法では、ゲノムの特定の位置にある一つの遺伝子を正確に他の遺伝子と入れ換えることは出来ません。外来遺伝子のゲノムへの組み込みは完全に統計的法則に従っており、でたらめな位置に組み込まれます。さらに悪いことには組み込みの効率は極めて低い。しかも、外来遺伝子の機能を発現する細胞もあれば、発現しない細胞もあり、その理由はまだわかっていません。

遺伝子治療は実際には「遺伝子導入」と呼ばれている治療法の一部です。