バイオテクノロジーの進歩を医療に適用すること、特に遺伝子診断と遺伝的スクリーニングを大規模に経済活動の場に導入することは、依然として激しい論争の的になっている。私達は最も深い心の奥底の不安な感情をかきたてるような問題に直面しているのである。私達は今や自然の進化の方向を修正する力と、人間性とは何かという、まさにその本質を修正する力を持っているので、生と死について熟慮するべき段階を起えてしまったが、世界を通じて大きなイデオロギーの変化が起こり、倫理が倫理を先導しようとしているこの決定的な時代に、新しい遺伝学に関係する道德的、倫理的、法的な輪争が起こっている。理由は幾つかあるが、最近の社会の姿勢は変わり、既存の技術の妥当性に対して関心が大きくなってきている。

西欧文明では生命を人間と自然との戦いと見る。この観点によれば、一方が他方を支配するしかない。もちろん、人類がこの戦いに勝つことは疑いないが、これはユダヤ・キリスト教の伝統によって強化された見方である。その結果人類は自然現象を利用できるようにする技術を開発し、それを精巧にすることに創造力を集中してきたのである。

よく知られているように技術の進歩は、宇宙は因果関係を持った法則によって支配された巨大なシステムであるという、環境についての決定論的な概念に由来する。この宇宙システムの中において、私達人類は思考能力を並外れて発達させた、組織化された物質的存在の一つであるというに過ぎない。この思考能力の特殊性は二つの大きな影響の中心にある。一方では、私達は思考過程によって、宇宙を支配する物理法則を概念化し公式化することができるが、他方私達の行動は基本的な性質、つまり主観の影響を受けており、これによって論理にのみ従うことから免れているのである。

主観的な分析によって、私達は行動の価値を組み立て直し、確固たる証拠を持たない抽象概念を信ずる(その存在を想定する信念が必要である)。主観的分析は良心の制御下にあり、哲学者ベルグソンによって与えられた定義に従えば、これは過去と未来の懸け橋である。私達は自身の経験(過去の蓋然性の範囲)に頼って、将来に影響を与える意識的選択をする。良心は善と悪の間の境界を示し、全ての人類文化は善と考えられることを行い、悪と感じられることを避けるために、従うべき一連の行動を規定する倫理規約を発展させた。価値判断によって、至高の目標に到達するために何をなすべきで、何をなすべきでないかが教えられる。あらゆる時代の哲学者は、個人個人の心の平和を達成するのに必要な高い価値に究極の目標を置いた。それはアリストテレスやエピキュロスにとっては幸福でありデカルトにとっては寛容の実現であり、カントにとっては善と幸福との共存であった。

私達の認識、対象や現象の概念化などは、二つの相反する心の枠組み、つまり合理性と直感の間で揺れ動いている。それらは「理性と感情」、「アインシュタインとベナレス」、パルカスの「幾何学の精神と繊細の精神」などと呼ばれる。歴史の中で色々な文化が一方に重きを置いたこともあれば、他方を重視したこともある。例えば昔のギリシア人やローマ人は合理的な考え方を重要視したにもかかわらず、魔術の干渉を信じ、重要な意志決定をする前に神託者や占い師に相談した。18世紀には数学的思考法に大きな進歩があり、技術革新の世紀である19世紀には、空想的な姿勢や合理的分析に勝って直観の価値が取り上げられた。