心という字は、心臓を描いた象形文字が原形で、血液を細い施管の隅々まで染み渡らせる心臓の働きを表したものというそれがやがて人間の精神作用を示す言葉に発展した。

漢和辞典によれば、心という字を含み、人の心の動きを意味する熟語はかなり多い。

感心・安心・良心・決心・野心・苦心・変心・信心・心証・心気・心機・心境・関心・歓心・甘心・寒心、その他多数。

心の熟語はどれも人間独特の行動と密接に結びついている。現代の脳科学では、心という高度な精神活動は、「人間にはあるが動物にはない」と考える。また心は脳にあるとして、いったい脳の何処に在るのだろうか。

人間の脳は、他の動物に比べて極端に大きい。人間の親類といわれるチンパンジーの3倍、ゴリラの2倍はある。そして大きいだけではなく、形も違っている。「猫の額のような」という表現があるが、実際に猫の額の内側に当たる部分の脳、つまり大脳の前頭葉を調べてみるとかなり狭く、文字どおり「猫の額」程度しかない。猫にも前頭棄がないわけでわないが、運動の中枢である運動野があるだけで、人間のような運動連合野や前頭前野はすっぽりと抜け落ちている。また、頭頂葉の聴覚連合野という部分もやはりほとんど存在しない。要するに、人間の脳の最大の特徴は、「連合野」と言われる部分が極めてよく発達していることである。動物の脳にはないが人間の脳にある、際立って大きな「連合野」のおかげで、人間は心と表現される高度な精神活動を行えるようになった。

もし大脳の連合野を大部分取り除いてしまったらどうなるだろうか?その場合には、人間の脳も動物の脳もほとんど同じ機能しか果たさない器官になる。その部分を今「動物の脳」と呼ぶことにしよう。この動物の脳は、もちろん高度な精神活動の出来る場所ではない。しかし、無駄な部分ではない。人間が生命を維持して行く上では、連合野に劣らずに重要な脳の部分である。脳には、人間にも動物にも共通の部分があり、そこが生きて行く上で欠かすことの出来ない重要な役割を担っている。

しかし、心は何処に在るのか?の答えとして、脳の何処にも存在していない、いわゆる解剖学的に、ここに在ると示すことは出来ないのに対して、心が脳の中に在るというのは、つまり脳機能が活動した時の、その活動の中に心は存在しているといえる。

考えるに始まって、注意したり、意識したり、集中したり、等々を、何をどのようにという脳作用の中に心が存在するということになる。逆に注意しなかったり、意識しなかったり、集中しなかったり、すればそこには、心無しということになる。心無き言葉、心無き仕草、心無き表情等々の表現は、そうした心動かしをしていないということになる。