危機に直面した時、頭の働きが良くなる、ということは物事に対して真剣な時こそ頭がフル回転するということである。といってもカリカリしていた方が良いということではない。感情を振り回すのは、脱線もしくは逃避であり、過剰に意議的になると、アガッたり、考えが混乱したりする。

『真剣な遊び』を忘れた人は、体制に飼い馴らされた人々でもある。餌付けされたサルが山に帰れなくなるのは、自然の中で食べ’物を見つけ出して行く荒々しい野性が失われてしまうからである。一日中、餌場の周辺をウロウロする姿は打算や駆け引きに頭を使う大人のくたびれた生き方にどこか似ている。事実、ストレスに悩むのは、このグループだという。親愛の情を意味するグルーミングをしなくなり、理由なく仲間と争いばかりし、観光客の荷物を奪うなどの悪事も働く。

もっとも特徵的なのは、働きが鈍くなり行動範囲が狭まることだ。その分、頭の働きが人間的になる。算数ができるチンパンジーを進化と見るのは、人間の勝手な思い込みに過ぎず、森を支配できない彼らは落ちこぼれなのである。

一方、餌付けを拒否した猿は、山の奥で本来の野性の生き方を押し通す。この時役立つのが『真剣な遊び』である。一見無意味に見える遊戯という基礎的行動が、食べ物を発見し、安全な場所を確保するなどの有益な行動の出発点になる。これこそ真剣な遊びがもたらす効力である。

波打ち際で遊び興じる子ども達の行為は、自然という未知の領域を自らの体験を通じて学習し、生きる糧を求め、危険と安全の境界線を探り当てようとする真剣さが秘められている。こう言った生死に関わる体験を積み重ねて子供は徐々に大人になっていくわけだが、それが子供にとって『面白い』と感じられる所こそが天の配剤なのである。

大人も、心に打算や駆け引き、義務感に捕らわれない真剣な遊びが芽生えた時、仕事が面白く感じられる。苦手だったセールスも試行錯誤を重ねてある日、コツを習得すると、それから以後、セールスが楽しくなって来る。この体験が真剣な遊びに当たる。一方仕事が面白くないとサボっていると、何時まで経ってもコツを覚えることができないばかりか、しまいには、人生そのものがつまらなくなってくる。

仕事に限らず、心に真剣な遊びを持っている人は、どんなことでも旨く乗り切っていける。好奇心が旺盛で意欲満々、人生を楽しみながら、数少ないチャンスを生かすことができるからである。例え境遇的に恵まれなくとも、そこから最大限の可能性を見つけ出せる。しかも彼らは遊びの本質である、他人と協調する聡明さも備えている。

一方、生活や生産に追われる人は、言語や技術、打算や駆け引きなどに長けていても嫉妬や虚栄、ストレスに悩まされながら窮屈な人生を一人で生きていかねばならない。

どんな些細なことにも全力を投入し、やがてそれが面白く思えてくるのは、頭がよく働いているからである。それに価値があるか無いかなどは二の次である。