『頭が良い』と自惚れている人が少なくない。いうまでもないが「人は知っていることを知っている」に過ぎない。世界に知らないことが存在しないように思えるのは、彼にはそれが見えていないからである。従って頭の良い人は、自分の知らないことが人の頭の数ほどあると考え、他人の前で意見を述べる時は軽率な断言を避け、「私の考えでは」と前置きする。

フッサール以降の哲学では『真実はその人の主観の中にある』と考える。井の中の蛙は大海を知らないが、同様に私達も宇宙の果てを知らないし、そもそも宇宙が存在する第一原因を知らない。これは不可知論だが、そうでなくとも私達は、山ほどの『知り得ない』ことに取り巻かれて生きている。蛙と違うのは『知り得ない』ことがあるのを知っているだけのことである。

哲学は長い間「主観・客観」論争を延々と繰り広げてきた。テーブルの上にあるリンゴは「客観的に存在する」か「網膜に映っているに過ぎない」か、を熱心に議論してきたのだが、これはフッサールの『世界は人の頭の数ほどある』という一言でケリがついた。

世界が客観的に存在するとしても、そのことを知り得たのは、主観を通してだったのであり、その主観は、人の頭の数ほどある。この考え方は、インターネットに代表される現代の高度情報化社会と密接に閲わる。世界が人の頭の数ほどあるのであれば、知のウエイトは、唯一の真実を追求することではなく、数多くある真実を仕分け、再構築する情報処理のほうに置かれるべきであるからだ。

ここで頭の良し悪しの基準がコペルニクス的展開を見せる。

頭の良さが、偏差値やIQの高さではなく『多数の頭を上手に集約する能力』になったのである。例えば広告代理店では、マーケティングとクリエイティブ、媒体戦略などを組み合わせて仕事をするが、分業とシステムをつなぎ合わせるこのやり方は、他のどんな仕事でも同じことである。

もともと社会は分業とシステムを基本構造として成り立っている。この仕組みが縦の関係になったのは、そこに権力が関与したからである。フーコーが『知と権力は共犯関係にある』と述べた通り、能力は権力関係によって縦軸に配置されてきた。これがIQの高い人が上に立ち、学歴の無い人が取り残される古いタイプの社会構造である。キャリアが大きな顔をしている日本の官僚制度がその典型だろう。

ところが今このシステムが変貌し、分業とシステムの関係は、縦軸型から横軸型へ変わってきた。ポピュラー音楽や電子ゲーム、インターネットやファッションなどの若者産業が活況を呈しているのは人の頭の数ほどある世界が、横の関係でうまく繋ぎ合わさり、個性が各々うまく活かされているからである。縦軸型だったらシステムが横に伸びた形になるにつれて頭の良さも、上へはい上がって行く登用試験的な能力から、能力別の役割分担へと変わってきた。今世紀のシステムは異質な才人たちが作るネットワーク型なのです。