私達は、毎日色々な事を感じ、また考え、様々な経験をしています。ですから、日を追うごとに壺の中のイメージが増えていきます。そのイメージには、様々な光景を見たり聞いたりして外から入って来る外界のイメージと、頭の中で色々考えたりふと思いついたりして、心の中から発生して来る内界のイメージとがあります。そして、壺の中がイメージで一杯になると、心が便秘を起こします。つまり、あまりに沢山のイメージで心は「鬱積」してしまうのです。そこで、心はその増加したイメージを外に出すことをしてこの「うっ積」を解消する必要が出てきます。溜まったイメージをどんどん表現してやると、心は何故かさっぱりして落ち着いた気持ちになります。私達は、新しいものを体験した時、また何かを考えたり思いついたりした時、無性に人に話したくなります。人に話せなかったり、人に聞いてもらえなかったりすると、何となくもやもやした気分でなにか収まらない感じがするのは、このように心が「鬱積」しているからです。

とは言っても、全てのイメージを表現しなければならないというわけではありません。昨日の晩にぼーっと見ていたテレビの映像などは、心の中に入る事なく、泡のように消えて無くなります。しかし、深く心の中にimpress(印象付けられる)されたものはどうしても他人に話したくなるもので、それが表現できないでいると、誰もがdepress(落ち込み)、抑うつ的な状態に成っていきます。例えば、抑うつ感を主訴として心理療法を受けに来られた患者さんが、イメージ療法の間、話し続け、終わると「肩の荷が下りたようだ」と言って、来た時とは全く違う明るい表情で帰って行かれることがあります。心の中の「うっ積」を表現することは、一種のカタルシス効果をもたらすと言えるのです。

壺の中には沢山のイメージがあふれるほど詰まっています。その壷を上からのぞいて見ると、壺の半分ほどまでは透けて見えるのですが、奧底の方は濁って暗く何も見えません。自分の心ぐらい自分で全部分かっているつもりでも、実は自分の知らない部分が底の方によどんでいるのです。これが、心理学者であるフロイドのいう無意識です。この無意識の部分には一体どんなイメージがあるのでしょうか。

ずっと昔・・・子供の頃や赤ちゃんだった頃のもうすでに忘れてしまった様々な記憶、例えば、お母さんの乳房の感触や犬にほえられてとても怖かった体験などが横たわっています。そして、もしかしたらそれよりももっと以前の、産道を通って出生した瞬間の記憶や、更には胎児のころの記憶、例えば羊水の温もり、お母さんの心臓の音、お腹の壁を通して聞こえて来た様々な話し声や物音等、そういったものまで残っているかもしれません。眩しい光がとても怖いという患者にイメージ療法を実施した例がアメリ力で報告されています。その患者はイメージが深まるにつれ、自分が生まれる時の記憶を思い出したというのです。それは息ができず苦しいときに突然、体全体を刺すような光が目の中に入って来て、体がしびれるような恐怖感を味わった体験でした。その事が治療中に表現されることによって、患者の眩しい光りに対する恐怖心は無くなりました。

幼児期以来のサブリミナルな知覚の痕跡も没殿しているのでしょう。サブリミナルな知覚とは、それと分からない程度に短い時間あるいは弱さでメッセージを送っても、人間は無意識の内にその映像なり言葉などを知覚しているというものです。幼児期以来、私達はこうしたサブリミナルな知覚を繰り返して来たのですが、それらがそれと意識される事なく、心の奥底に幾層にも沈殿しているわけです。例えば、隣の部屋で聞こえるはずのないような小声で自分のことを話す両親の声や、雑誌をパラパラとめくっていた時、それと気づくことなく目に入った人の顔など「デジャブ(既視体験)」というのもこのサブリミナルな知覚の記憶の作用によるのかもしれません。つまり、過去のある時、瞬きする間よりも短い瞬間に何気なしに見た一瞬の光景が記憶からよみがえるために、初めてのはずの場所をすでに見たように感じるのではないか。

この他にも、この壺の奥底には「思い出すのも嫌な記憶」が詰まっています。とても嫌で辛い出来事は、人にいうことも意識に登らせることもできません。そこで無理やり忘れようとして、壺の奥底に押し込んで二度と浮かび上がらないようにして置こうとします。そしてそれは、壺の奥の奥にじっと動かないように抑え込まれています。

ところが、そうした辛く嫌な思い出、不快で悲しいイメージはただ単に奥底に押し込んで置こうとしても、繰り遮し繰り返し意識に登って来ようとします。忘れることのできない思い出が、何度も何度も記憶の底からよみがえって来て私達の心を悩まします。フロイトは自我の防衛規制のもっとも基本的なものとして「抑圧」を挙げています。抑圧とは、そのまま表現すると不安や破局を招く恐れのある衝動や表象を、意識から締め出すことです。人は外的状況からは逃れたいと思えば逃れることもできますが、自分の心の中の刺激からはそう簡単に逃れられません。そこで自我はそれを意識しないように振る舞おうとします。しかし抑圧された衝動は無意識の中で存在し続け、気づかない形で行動に影響を及ぼします。それは落ち着きの無さや言い間違いなどから神経症の症状にわたるまで様々な形で現れて来るのです。

このことを比喩的に言えば、人は壺の中に幾つもの壺を更に作って、その中に辛い思い出を押し込んで蓋をして置こうすると言えます。そうすれば、もう昔の悲しい思い出に悩まされることはありません。幾つかの壺の中に沢山の悲しい思い出をしまい込み、かっちりと蓋をして、もう二度と意識に登らせないようにするのです。そうは言っても、これで安心できるわけではありません。不快な記憶は蓋をすり抜け、壺を壊して外に出ようとします。そのため人は絶えず蓋を押さえ付け、壺を更に補強し続けなければなりません。こうして人は知らない間にエネルギーを使い果たします。心の奥深く本人も気がつかないほど深い悩みを抱えた人は、ただそれだけのことで生命エネルギーを消耗させ、疲労と凝り、ゆううつと不安にさいなまされ、日常の行動に大きな影響を及ぼされます。

心の蓋の中に沈殿しているイメージの大部分はそれぞれ皆感情的なエネルギーを伴う。